シーズン2制作決定記念、いち当事者としてのハートストッパー感想 【Heartstopper】

 

 

 
 
 
 
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原作者兼ショーランナーのAlice Oseman(@aliceoseman)

 

Alice Osemanのグラフィックノベル原作、Netflixで映像化されたハートストッパー、つい先日にシーズン2,3の制作が正式に発表されたみたい。この新シーズン決定の情報は、まだ配信開始から1ヶ月程度ということを考慮すると、中々のスピード感だ。てなわけでシリーズの感想を綴っていくよ。ネタバレあり。

 

 


■感想


 

まず初めに、軽く自己紹介しようかな。僕は20代前半のゲイ。リアルで僕のセクシュアリティを知っている人間はいないので、バリバリクローゼットの中にいる状態。日常のささやかな楽しみの一つがクィア作品を見ることなんだけど、その手の作品は粗方見尽くしてたんだよね。なんか他に良い作品ないかな~というタイミングで配信されたのがハートストッパー。 

 

で、当事者の僕はハートストッパーを楽しめたのか…?という点だが、

HELL FUCKING YES

なんですかこの非の打ち所がないハートフルな物語は。内容はもちろんのこと、制作陣や役者さんの作品に対する真摯な姿勢にも感銘した。この作品がネトフリに来るという情報を得た瞬間に下調べをしてパッと見信頼できそうなクリエイターだったってのもあり、期待に胸を膨らませていたわけだが…そんな期待を全く裏切らない作品だった。当然のごとく何一つ喉につっかえるような描写もなかったし。これ大事ね。そういう意味では、同じNetflixシリーズのセックス・エデュケーションやヤング・ロイヤルズを楽しめた方には是非おすすめしたい。

物語は基本チャーリーとニックの関係を軸に進むわけだが、並行して展開されるサブプロットのタラ&ダーシー、タオ&エルのストーリーも「息抜きのおまけ」とは一切感じることなく丁寧に描かれていた。主軸のプロットにここまで上手く絡ませることが出来るのはあっぱれ。ただやっぱりサブプロット的な扱いは不公平なので、レズビアン/トランスジェンダーがメインの話も今後もっと作られるべきだということは主張しておく。ハートストッパーだけに限らず、エンタメ全体の話ね。

 

特にお気に入りなシーンを挙げるとすると、まずは第三話、パーティーでのタラとダーシーのシーン。何あれやばすぎ。曲といい映像といい鳥肌たちまくりだったよ。

で、個人的に一番目頭やられたのが最終話、ニックがオリヴィア・コールマン演じるお母さんに自分のセクシュアリティを打ち明けるシーン。"I'm sorry if I ever made you feel like you couldn't tell me that" (私に打ち明けても理解してくれないかもと思わせたのだったらごめんなさい)というセリフは、今後もし誰かにカミングアウトされたら是非言ってあげてほしい。ニック役キット・コナー君の演技も素晴らしかったね。

 

 


■チャーリーとニック


 

メインの2人を語らずにはいられないよねってことで、ちょっと軽く言及。

 

チャーリー…君はなんてピュアなんだ…。彼みたいな「自分の存在が全てをぐちゃぐちゃにしている元凶」という思考に陥っちゃう人は大変だろうなぁって。僕はもう基本この世は理不尽だし人類の8割はキモイという諦めのマインドセットで日々生きることにしたから最早そういう「自己嫌悪」にはならないからねウケる。

そういえば、チャーリーがどういう経緯でゲイだとバレたのかは作中ではまだ説明なかったよね?次シーズンでその辺も語られるのかな?でも、サポーティブな家族や友達がいるってすっごい羨ましい。これは『Love, サイモン』を見ている時にも感じた。こんな理想的な環境に身をおけているクィアなんて現実では絶対少数なわけで、そういう観点で言うと、チャーリーは恵まれているのかもしれない。ただ、彼はイジメられていたという暗い過去がある。原作未読なので憶測だが、それがきっかけで今のようなサポーティブな家族や友達がいる可能性だってあるし。ずっと一人で美術室に籠もっていたことを考えると、やっぱりタオ、アイザック、エルと仲良くなったのはその後の話なんだろうか…。

 

で、ニックはというと、典型的なホモソノリ全開な友達と一緒にいるところからスタート。いやー、地獄だね。こういう「異性が好きでしょ君」みたいな状況、どういう立ち振舞いをするのが正解なのか未だに分かってない。とりあえず「アハハハ」と愛想笑いして適当に流してるけど、目は死んでると思う。

ニックはバイセクシャル。そんな彼がチャーリーと出会い、自分自身のセクシュアリティと向き合い、徐々に居場所を見つけていく過程には実に励まされる。最終話のカミングアウトシーンではオリヴィア・コールマンの反応だけでもうこちとら涙腺ウルウルだったのに、「チャーリーが正式にボーイフレンドとなったのは最近だけど、ずっと前から好きだった」という彼の発言で見事に涙腺決壊した。

 

そういやなんか「登場キャラがLGBTだらけなのは不自然」とかいうレビューがあったらしいけど、シャラップ?????????もし僕が身近にクィアがいると知ったら秒で友達になろうと押しかけるだろうからクィアやallyだけのグループが形成されるのはごく自然なことだと思うけど??????そもそも不自然ってなんだ不自然って。

てか本作はまさしくその様子を描いているのに。ニックがそうでしょ。彼がなんでタラとダーシーにチャーリーとの関係を明かしたか理解できないのかな。あの2人がクィアだからだよ?ラグビー仲間を捨ててチャーリーのグループとつるみはじめたのもそっちの方が居心地良いと感じたからでしょっていう。建設的な批評/批判はウェルカムだけど、流石にこれには反論させてもらう。

 

 


■ベン・ホープというキャラクター


 

ここで少しベンの話をしたい。どうやら彼はチャーリーがゲイだと学校内で知れ渡った時に歩み寄ってきたらしく、一応チャーリーが初めて親密な関係を持った相手。作品内では嫌な奴という位置付けで、それに対比する形でニックの好感度が爆上がりするわけだが…。まぁベンの根本的な性格には問題もあるとして、忘れてはいけないのが、 彼もまた自分のセクシュアリティと葛藤している人間の一人ってことじゃないかな。ベンの言動は英語圏だと"internalized homophobia"と呼ばれている。

最終話、レース終了後のチャーリーとベンのシーン。お気づきの方もいるかもしれないが、あの時ベンは泣いている。 あの涙は台本にあった演出なのか、演じているセバスチャン・クロフト君が感極まって涙を流してしまったのかは定かではないが、いずれにせよグッとくる場面だった。

前述したとおり、ベンもチャーリーと同じなのだ。むしろ、彼にはチャーリーのような何でも気軽に話せる友達や家族がいないかもしれない。そう考えると不憫でならないんだよね。チャーリーにあのような態度で接するのは勿論良くないが、彼も苦しい立場にいるんだと思う。そのむしゃくしゃの矛先が内側(自分)に向くチャーリーと、外側(周り)に向くのがベンといったところだろうか。是非ベンにも幸せな人生を歩んでもらいたいのだが、小耳に挟んだ情報によると、彼は今後の原作でほとんど登場しないらしいんだよね。そこをどうにかして欲しい頼みますよ!   

 


■キャストインタビューから垣間見える社会の成熟っぷり


 

どのフィクション作品にも言えることだが、いくらフィクションとはいえ作り手は人間なので、その人の思想や信念が物語の随所に見受けられることは往々にしてあるだろう。もちろん「作中内の描写=現実社会の雰囲気を正確に反映している」というわけではない。ただ、制作陣&キャストが語る裏話や意気込み、姿勢などが聞けるインタビューでは、その国の「社会の雰囲気」や「世間一般の意識」などを垣間見ることができるのではないかと思う。特にこういう社会派の作品だとなおさら。

てなわけで、是非こちらの記事をDeepLかなんかで翻訳して読んでほしい。

 一部発言を掻い摘んで抜粋↓

チャーリー:「10年前なら作られなかったような作品だ。"It's a Sin"や"Euphoria"のようにクィアが抱える悩みや苦悩を描くのはもちろん大切だが、クィアの人達にだって幸せになる権利はあるというのを伝えるのも同じくらい大事だと思う。」

ダーシー:「レズビアンはメディアだと透明化されがちなので、レズビアンの話がこうやって取り上げられるのは嬉しい。そして、女性好きな女性ではなく、"レズビアン"というワードを積極的に使っているのも素敵。」

タオ&エリ:「自分達キャストはこの作品に出るにあたりストーンウォールの反乱やエイズの歴史などを学んだ。全ては教育することに尽きると思う。」

 

ここで一旦またベンの話に戻らせてもらう。僕がここまで彼に惹かれている理由として、演じているセバスチャン君がこれまた素晴らしい聖人だからなんだよね。

彼がゲストで登場するポッドキャストを聞いたのだが、そこでの発言にもまた感心させられた。

 

"Carrying a weight of feeling like whenever you're telling a story that hasn't necessarily been told or is of people who don't usually get a story front and center, you feel this responsibility to represent more than just yourself and kind of speak for a wider community."

 

雑に意訳すると、「普段焦点の当たらない特定の人達の物語を描くとき、一人だけの話ではなく、より広いコミュニティを背負う責任があると思っていて、ハートストッパーではその役割をちゃんと果たしたかった。」

"represent"はこういうマイノリティの話題でよく登場する単語だが、なんせこの概念、日本語に訳すのが鬼ムズい。イメージとしては、「メディアでマイノリティを扱う/演じることで、社会でその属性の認知を上げる」といったところであろうか。

さらに彼はこのポッドキャスト内で過去にイジメられた経験があることも話しており、「人と違うという理由でイジメられたことがある人や、今まさにそういう状況で苦しんでいる人もハートストッパーだけは安全地帯だと思い、少しでも元気だしてくれたら嬉しい。」とも言っていた。全内容が気になる方はこちら↓ 

 

キャストインタビューから印象に残った発言をいくつか抜粋してみたのだが、いかがだろう。キャスト達から「社会を良くしたい」「クィアコミュニティを活性化したい」という強い意思を感じないだろうか。一人一人がここまでしっかり自分の言葉でこの作品に込める思いや、願いを伝え、クィアのキャラクターを演じることに付随する責任をここまで背負って挑んでいるのだ。セバスチャン君やチャーリー役のジョー君は、今ではすっかりただのヘイト製造マシーンになっているJ・K・ローリングの批判もしてたりと、実際にキャストがSNSを通し現実社会の問題に対して声を上げていたりもする。

 

日本でも『おっさんずラブ 』や『きのう何食べた?』の影響もありLGBT自体の認知が上がってきていて、性的マイノリティーに対する社会の寛容性も少しづつ高まっていることは素晴らしいと思う。ただ、「消費止まり」なんだよねホント。いくらBL/クィア作品が作られ、それらが人気だろうと、欧米先進国レベルにはまだ追いついていないってのはまさにこういうインタビューを聞くと痛感する。ティーンがあんな立派な発言できるぐらい社会の意識は進んでいるってことなんだから。タオ役のウィリアム君が上記の記事で「僕のお父さんの友達はゲイなんだけど」とサラッと言ってたが、こういうとこよね。

 


■最後に


 

状況は良くなっていると信じたいところだが、ただでさえ日々のヘテロ前提雑談にうんざりしてるというのに先日職場でとっくに成人済みの大人が「ゲイに掘られそうになったw」だの笑いのネタにしている場面に出くわしたので精神的にキツイ。ウチらの現実はまだこの程度かと。

僕がLGBT作品を見る理由としては、「現実逃避」が大きいんだけど、いくら視聴中や見終わった直後にほのぼの気分でもすぐこういうのに遭遇してプラマイゼロ、むしろダメージ増なんだよね。はぁツライ。だからもう現実に向き合う暇もないぐらいのペース(週一)でこういう作品を配信してくれないかなぁNetflixさんよぉ。